1990年11月14日横浜文化体育館(現在は横浜BUNTAI)で女子プロレス史に伝説として今でも語り継がれている試合があったのをご存知でしょうか?
当時人気絶頂だったブル中野選手とアジャコング選手が対戦した「金網デスマッチ」は、今でも女子プロレス界の歴史に輝き続ける伝説の試合として語り継がれています。
この記事では、その伝説の「金網デスマッチ」についてブル中野選手とアジャコング選手の経歴と現在についてを踏まえて書いております。
伝説の金網デスマッチについて
今は伝説となっている、この一戦でブル中野とアジャコングは、ファンの女子プロレスの認識を覆すほどの血だらけの死闘を展開。
最後は、ブル中野が4メートルの金網最上段からギロチンドロップを敢行してアジャをKOし、そのまま金網からエスケープして勝利した。
基本情報
- 試合日:1990年11月14日
- 場所:神奈川県 横浜文化体育館
- ルール:金網ノーレフリーデスマッチ 時間無制限 凶器自由
- 試合結果:◯ブル中野(KO エスケープ)●アジャコング
- 試合時間:20分59秒
この金網デスマッチが伝説とされる理由
今でこそ高所から飛び降りるような技は珍しくなくなったが、当時は金網最上段からのギロチンドロップなど前代未聞。
凄まじいインパクトを残すとともに、ファンはこの技を敢行したブル中野と、それを受けたアジャコングに畏敬の念を抱くようになった。
そしてこの一戦は、女子プロレスの試合としては初めて、「週刊プロレス」の表紙を飾ることとなる。
ブル中野はアジャコングに勝利するとともに、女子プロレスを色眼鏡で見るプロレスファンの目にも勝利したのだ。
このブル中野とアジャコングの抗争は、その後も2年間続き、1992年11月26日川崎市体育館で、ついにアジャコングがブル中野超えを果たして決着した。
2年間の抗争をアジャコングさんはこう語っています
1日でホッとできるのは、試合が終わったその瞬間だけ。
当時は、ブル中野さんとの対戦カードがほぼ毎日組まれていて、「今日も生きて無事に終われた」と思って、家に帰って、お風呂に入って、寝たらまた朝が来る。
朝が来たら、また闘わないといけない。
「朝よ、来ないでくれ」と思いつづけた2年間だったので、「死ぬかもな」というより、「今日も生きていられて良かったな」でしたね。
お互いに死を覚悟して毎回、決戦に挑んてたので伝説と呼ばれるほどになったんですね。
私はリアルタイムで見ていた世代なので、当時の二人は本当に凄かったですよ!!
ブル中野について
ここではブル中野さんについてまとめました。
プロフィール
ブル中野
- 本名:中野恵子(旧姓)
- 生年月日:1968年1月8日
- 年齢:56歳(2024年現在)
- 血液型:B型
- 身長:170cm
- 出身:東京都
- デビュー:1983年
- 引退:1997年
経歴
駆け出し時代
1980年(中学校1年生時)、全日本女子プロレスのオーディションに合格し、入門を目指す練習生となる。
1983年、全日本女子プロレスに入門。9月23日、埼玉県の戸田市スポーツセンター大会にて、本名である中野恵子でプロデビュー。
1983年秋の新人王トーナメントにて優勝。また、メインイベンターであり新人時代から面倒を見てもらった長与千種の付き人になる。
1984年9月13日の戸田大会における全日本ジュニア王座の獲得など、同期の中では出世頭であった。
その一方、ある同期をいじめたことにより全女内の風紀を乱していた。
その結果、先輩レスラーたちに目を付けられ無視されたり、自身もいじめを受けるなど誰にも相手にされなかったという。
そんな折、以前より中野を気にかけていたダンプ松本から「極悪同盟」への加入を誘われる。
当初はヒール転向を厭忌していたため何度も断ったが、ダンプ松本によって松永高司会長のもとへ半ば強引に連行されてしまう。
最終的には折れるかたちで極悪同盟へ加入。
極悪同盟
1985年2月極悪同盟加入後、からダンプ松本にあやかり、中野恵子から「ブル中野」へリングネームを改名。
パンクをモチーフとする明瞭なヒールの外観と、ヌンチャクを凶器に使用するというギミックに変更。
こうして誕生したブル中野は、ダンプ松本、クレーン・ユウらと組んだヒール軍団「極悪同盟」での活動によってレスラーとして一気にブレイクを果たす。
クレーン・ユウの引退後に組んだダンプ松本とのタッグチームは、ベビーフェイスであるクラッシュギャルズとの抗争で人気を博し、全日本女子プロレスのメインイベンターかつトップレスラーとしての地位を確立。
獄門党
1988年のダンプ松本引退後は、自身をリーダーとした 「獄門党」 を結成。
グリズリー岩本、アジャコング、バイソン木村らの実力派を従えヒールの頂点として活動。以降は青に染髪し、逆立てヘアをトレードマークとした。
1990年1月4日、クラッシュギャルズ引退後の後楽園ホールで行われたWWWA世界シングル王座決定トーナメントにて西脇充子を下し優勝、第37代王者に輝く。
以後およそ3年間にわたりチャンピオンとして全日本女子プロレスの屋台骨を支え、その強さから 「女帝」 と呼ばれるようになる。
これによりブル中野はヒールでありながら女子プロレス界の最高位を占め、ベビーフェイスがヒールを倒すという従来の対立構造を崩した。
そして獄門党から配下のアジャコング、バイソン木村の両名からなる「ジャングル・ジャック」の独立を許し、ヒール対ヒールというかつてない対立構造を団体の中心に据えた。
既存の女子プロレスにはない金網デスマッチやチェーン・デスマッチの敢行、巨体ながらムーンサルト・プレスやトペ・スイシーダなど宙を舞う華麗な空中戦法で、女子プロレスの歴史を塗り替える顕著な実績を残した。
同時期に開始された他団体のトップ選手と戦う団体対抗戦は大いに盛り上がり、ブル中野は善玉悪役を超越し会社の看板を背負い臨んだ。
1990年11月14日、横浜文化体育館にてアジャコングとの金網デスマッチを開催。金網ケージの頂上から放ったギロチン・ドロップによって、女子プロレスの枠を超え一気にブレイクを果たした。
1992年11月26日、川崎市体育館にてアジャコングに敗れ、WWWA世界シングル王座を失う。
米国遠征〜引退
1993年から米国のWWF(現WWE)へ長期遠征した。
ルナ・バションをマネージャーに女子戦線のトップヒールとしてアランドラ・ブレイズと抗争を繰り広げた。
ブル中野はWWE世界女子王座を獲得した唯一の日本人レスラーである。
1994年に帰国し、日本の女子プロレスシーンに復帰。神取忍とのチェーンデスマッチにて勝利を収めた。
1996年、再び米国へ遠征。WCWでメデューサらと抗争を繰り広げた。
1997年、米遠征中に負った、左膝靭帯2本の断裂によりプロレスラーを引退。
2001年には、米国プロレス誌『Wrestling Observer Newsletter』選定の殿堂入りを果たした。
アジャコングについて
ここではアジャコングさんについてまとめました。
プロフィール
アジャコング
- 本名:宍戸江利花
- 生年月日:1970年9月25日
- 年齢:54歳(2024年現在)
- 血液型:O型
- 身長:165cm
- 出身:東京都
- デビュー:1986年
- 所属:WAHAHA本舗
経歴
全日本女子プロレス時代
1986年中学校卒後、全日本女子プロレスへ入門。
同年9月17日、秋田県男鹿市体育館の対豊田記代戦でデビュー。
1990年に母が肝臓癌で死去する事態に見舞われたが、その悲しみをバネに奮起することになった。
母の死去の際にはアジャは試合会場にいたが、突然、理由を告げられずに試合の繰上げを申し渡されたことで、母親の死を察したという。
若手時代はブル中野率いるヒール軍団「獄門党」の一員であり、新人時代はブル中野の付き人を担当していた。
しかしアジャコングは、素人時代から部屋にポスターを貼っていたなど、元々はクラッシュ・ギャルズの大ファンであり、長与千種に憧れて入門したベビーフェイス志望だった。
1990年にブル中野に反旗を翻して同期のバイソン木村と共に獄門党を離脱しジャングル・ジャックを結成。
ブル中野ら獄門党とのヒール同士の抗争を繰り広げ、団体対抗戦突入以前の全女を盛り上げる。
1990年11月14日の金網デスマッチでの対中野戦では、流血戦の末に金網最上段からのギロチンドロップを受け敗れたが、女子プロレスとしては初めて週刊プロレスの表紙を飾る。
1992年11月にアジャコングがブル中野に勝利し2年の抗争は決着した。
団体対抗戦に入ってからは、アジャの持つWWWA世界シングル王座を巡ってのダイナマイト・関西(JWP)とのヘビー級対決や、新人時代に苦手としていた工藤めぐみ(FMW)と対戦した。
1995年にはWWF(現・WWE)のPPV・サバイバー・シリーズに出場。
モンスター・リッパーやライオネス飛鳥、渡辺智子と「チーム・フェイ」を組み、アランドラ・ブレイズ、井上京子、チャパリータASARI、長谷川咲恵ら「チーム・ブレイズ」とのエリミネーションマッチを戦う。
最後まで残ったアジャは、当時のWWF世界女子王者のブレイズを裏拳で倒し日本だけにとどまらずアメリカにもその名を広めた。
フリー時代
1997年に全日本女子プロレスを退団、小川宏と新団体「アルシオン」を設立する。アジャはファイティング・プロデューサーの肩書きを持っていたが、小川宏と意見が対立し退団。GAEA JAPANへと戦いの場所を移す。
2000年代はハッスル等の男子プロレスにも活動領域を広げて活動。なおハッスルではリングネームを本名から取ったEricaとした。「Erika乙女軍団」を率いて「高田アマゾネス軍」との抗争を繰り広げた。
2006年に入り、更なる飛躍を目指して男子との対戦を開始し、全米No.1タッグチームともいわれるチーム3Dとの対戦を実現させた。
OZアカデミー女子プロレス時代
2006年10月23日にOZアカデミー参戦を発表、チャンピオンベルトコレクターとして同団体の初代女王を目指すためと公言。
2007年3月10日の新宿FACEにおける第25回OZアカデミー興行「女王誕生」におけるOZアカデミー認定無差別級初代王者決定トーナメント決勝戦で、永島千佳世を破って宣言どおりに初代女王となった。
2008年1月、カルロス天野に王座を奪われると、松本浩代・AKINO・輝優優をメンバーに迎え、派閥「ジャングル・ジャック21」を結成。
2009年1月には、松本浩代と共にOZアカデミー認定タッグ王座を獲得した。
2015年、プロレスラーとしてはOZアカデミーの他、プロレスリングWAVEやDDTプロレスリング、センダイガールズにも参戦している。
2016年7月18日、後楽園ホールにて「アジャコング30周年記念興行~SUMMER JUMBO 寿~」を開催。
2020年7月11日、超花火プロレスの社長に就任(OZアカデミー選手兼任)。
2022年12月末、OZアカデミーを退団。以降はフリーとして国内外の団体に参戦している。
現在の二人について
2016年当時ブル中野さんが経営していた飲み屋「中野のぶるちゃん」(現在は閉店)にアジャコングさんが訪れた時の画像です。
元々人格者のお二人。
現在は仲が良さそうですね♪
ブル中野の現在
現在のブル中野さんです。
本当にお綺麗ですよね!!
アルコール性肝硬変を患って依頼、健康には気をつけてられるそうです。
健康法を知りたいです!!
本にして欲しいですね。
ブル中野さんは2010年、42歳の時に15歳年下の青木大輔さん(元プロキックボクサー)とご結婚されました。
現在は、旦那さんのサポートのもと「トークショー」「講演会」「プロレスの解説」「ゴルフ関係」「結婚式の司会」など、なんでもやってみようの精神で色々なことにチャレンジされています。
アジャコングの現在
アジャコングさんは生涯現役を目標に未だに現役のレスラーとして活躍されています!!
憧れは生涯現役を貫いたジャイアント馬場さんだそうです。
54歳(2024年現在)で現役のレスラーを続けているだけで凄いことですね!!
ジャイアント馬場さんが持っている61歳現役の記録を超えて欲しいです!!
その他にも1994年のCM出演をきっかけに「タレント活動」「俳優」「ラジオに出演」など、様々な活動を精力的にされております。
まとめ
今回はこの記事では、その伝説の「金網デスマッチ」についてブル中野選手とアジャコング選手の経歴と現在についてを踏まえて書きました。
女子プロレスを語る上で、伝説の「金網デスマッチ」を外すことは出来ないということを理解して頂いたと思います。
そして、ブル中野さんとアジャコングさんは、現在もそれぞれの道で大活躍されております。
特にアジャコングさんは現役のレスラーを続けられております。
これからも私はアジャコングさんのファンの一人として応援していきます!!
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。